あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

エモスウィッチ・エンゲイジ

いまいち合わないなと思って遠ざけていた音楽が、半年から数年、あるいはもっと長い空白をあいだに置いて何気なく聴いてみたときに、危うくパニック状態に陥るほど心を揺すぶってくることがある。

わたしたちはそのたびに「は? ウソだろ? こんなに良かったっけ?」と目を白黒させ、不思議の感に打たれるわけだが、しかし何のことはない、手前の好みが変化したんである。もしくは手前の耳がその音楽に追いついたんであり、手前の受け入れ態勢が整ったんである。

そんなわけで近頃は米国のメタルコア・バンド、キルスウィッチ・エンゲイジを聴く。かつての苦手意識が嘘のようにぞっこん首ったけである。何しろエモい。すこぶるエモい。あんまりにもエモいので、心密かに「エモスウィッチ・エンゲイジ」と呼びならわしている。

しかしここで誤解のないようにしておきたい。メタル界隈の皆様にすれば何を今更といったところだろうが、このバンドのエモさは、いかにも繊細さとヤンチャさとを併せ持つような当世風の若い男の子が痩躯をよじらせながらスクリームする方式のエモさとは一線を画する。もっと無骨で、自然体で、毛むくじゃらな感じなのだ。

初期のアルバム2枚をとっかえひっかえ聴くうちに妙な感覚が生じてきた。ある楽曲に先日亡くなった小神様へのレクイエム的なイメージを抱くようになったのだ。感傷の度合いで言えば『マイ・ラスト・セレナーデ』だろうし、歌詞の内容なら『ローズ・オブ・シャリン』がぴったりだ。けれどもわたしの潜在意識は次の楽曲を指差して、どうにもレクイエム的だぞと言う。

Killswitch Engage - A Bid Farewell - YouTube

土砂降りの雨を想起させるトレモロリフがやがて大きなうねりに変わり、それまでのスクリームから一転、黒人ボーカリストが力強くしなやかに歌い出すとき、まったくどういうわけか、わたしはそこに仏教的無常観のようなものを聴く。さらにはCメロのマジ半端ねえ熱量、ダイナミズム、どこか高くて脆い場所へ向かって一心不乱に駆け上がっていくかのような疾走感、そうして訪れる一瞬の、いや、永遠の静寂ーー。

虚構と現実とが混ざり合う領域でわたしたちはいろいろな景色を見る。何しろエモい。すこぶるエモい。あんまりにもエモいので、心密かに「エモスウィッチ・エンゲイジ」と呼びならわしているほどだ。