あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

時間のかかる彫刻

メタル歴10年余りにして先月ついにアイアン・メイデンにたどり着いた。到底無理だろうと思っていただけに感慨もひとしおである。しかも単にたどり着いただけでなく、マジかっこいいぜヒャッハーと感じた。そう感じられた手前の変化にちょっと感動してしまった。

何しろほんの数年前まで、わたしはメタル村のごく限られた界隈をうろつくばかりの半端者にすぎなかった。他の追随を許さぬ攻撃性と変態性とに心を奪われつつも、例のハイトーンヴォイス、演奏テクニックのひけらかし行為、隙あらばハモってくるツインギター、嫌に仰々しく煽情的なメロディや楽曲構成、などなどが放つメタル特有のクサさに苦手意識を抱いていたからだ。

したがって比較的クサくないメタルばかりを選んで聴いていた。この年齢にもなると音楽は全き自己満足の世界だからそれで十分なのだったが、しかし一方では、メタル村の中心部に立ち入ることができない自分に漠とした不甲斐なさを感じていたのも事実である。

そんな半端者を変えたのは──いまになって考えるとそれこそ明確に──BABYMETALとトリヴィアムだった。

どちらも第一印象は悪かった。前者はアイドルなんか聴けるかよと一度は諦めかけたし、後者にいたってはクサすぎて聴けず、長らく放置していたほどだ。それが両者の大ファンになったことで、結果的にクサい方面のメタルをあれこれ勉強させてもらったのだと思う。

作家のシオドア・スタージョンは短編『時間のかかる彫刻』で、取っ掛かりに盆栽を、そうして最終的には人間という生き物を、表題通り「時間のかかる彫刻」と比喩している。畢竟ずるに、能動と受動とを問わず、また好むと好まざるとに関わらず、わたしたちは、いや、少なくともわたしたちの好み、感じ方、心のありようは、そこへ加わる何かしらの力によって時間とともに変わっていく、もしくは変えることができるという話だ。

だからこそわたしはメタルの中心部にたどり着けたのだろう。それにしてもアイアン・メイデンをマジかっこいいぜヒャッハーと感じる日が来るとは自分ながら想定外だった。どうやら人間というのは、わたしたちが思う以上にぐにゃぐにゃとした可塑的な生き物らしい。

さて、ライブ盤に加えてスタジオ盤2枚を聴くところ、アイアン・メイデンの音楽は懐かしくもあり、と同時に新しくもある。こうした印象こそアイアン・メイデンの影響力が現在進行形である証拠に違いない。

シャッフル再生は魔法だよ

10年前に買ったウォークマンがほんの数時間で力尽きてしまうので、新しいデジタル音楽プレイヤーを取り寄せることにした。これに手持ちのCDから選りすぐったメタル約500曲を落とし込み、シャッフル再生して楽しむ魂胆なのだった。

さて、結論から言ってこんなものはほとんどドラッグである。何しろ絶え間なく押し寄せるメタルの奔流に身を委ねるだけで癒しと安らぎとが得られるうえ、空元気のようなものまで湧き上がってくる──あくまで個人の感想です。効果・効能を保証するものではありません。また、強い常習性がありますのでご注意ください。

くわえて肝心のシャッフル再生がしばしば味な仕事をやってよこす。なかんずく荒ぶるメタル野郎どもの間隙を突いて、天使のような女の子たちがひょっこり顔を出す瞬間の胸のときめきは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。

試しに想像してごらんなさい──パンテラの『ファッキン・ホスタイル』に続いて『おねだり大作戦』が再生される有様を。あるいはメタリカの『バッテリー』に続いて『あわだまフィーバー』が、アイアン・メイデンの『誇り高き戦い』に続いて『イジメ、ダメ、ゼッタイ』が、スリップノットの『スピット・イット・アウト』に続いて『テイルズ・オブ・ザ・デスティニーズ』が、まるで魔法のように鼓膜を揺すぶってくる有様を。

冗談じみたコントラストに思わず頰がゆるむ。いや、本当を言えばBABYMETALの楽曲が再生されるたびにフフッと吹き出してしまう。と同時に、しかし何故なんだろうか、わたしは得体の知れない感動をおぼえるのだ。

こうやって偉大な先人たちと混ぜこぜにして聴いてこそ実感する、BABYMETALのBABYMETALたるゆえん。

感動と言えば先日、冬季五輪の女子スケルトンを見るともなく見ていたときのことである。シャッフル再生がアヴェンジド・セブンフォールドの『ビースト・アンド・ザ・ハーロット』を選曲してよこした。すると、信じられますか、このクサすぎて鼻のひん曲がるようなメロスピがスケルトン女子たちの勇猛果敢な滑りにぴたりと重なって、わたしは不覚にも涙ぐんでしまった。

このように、メタルのシャッフル再生は、快楽性および常習性の意味でほとんどドラッグであり、しばしば不思議のわざを引き起こすの意味でほとんど魔法である。いずれ24時間ぶっ続けで聴いてみるつもりだ。

サードアルバムにおねだりしたい5つのこと

わたしの憶測が正しければ、BABYMETALのサードアルバムはすでに出来上がっているはずである。したがって今更おねだりしても遅いのだが、しかしそれを言えば、一介のファンごときが(以下略)

(1)メタルとディスコのクロスオーバー
くどいようだが重ね重ねおねだりせざるを得ない。何しろ両者の相性は抜群だし、踊りも見どころ満載の仕上がりになること間違いなしだからだ。試しにちょっと想像してみてほしいーー躍動感あふれるファンキーなベースラインにキラキラ&ゴリゴリのギターが乗っかり、さらにそこへツーバスの連打が加わってくる有様を。

(2)デス・エン・ロール
巨大キツネ祭りSSA公演の神バンドソロを体験した瞬間から、わたしはデス・エン・ロールすなわちデスメタルとロックンロールとが融合するスタイルをおねだりして止まない。カワイイ、カッコイイ、ストレンジ感の3要素のみならず、適度なレトロ感をも落とし込むことができるという意味で、BABYMETALにとって非常においしいサブジャンルなのではあるまいか。

(3)BBM曲とSU-METALソロ曲の合体
YUIMETALとMOAMETALによる獰猛可憐なラップパートとSU-METALによるメロディアスな歌唱パート、これらが巧みに按配された、いままでにありそうでなかった構成の楽曲をおねだりしていく。リンキンパーク風のオシャンティーなのも悪くないが、理想を言えばスリップノットの『AOV』みたいな泥臭いのがいい。

(4)一味違うエモさ
前回お寄せいただいたコメントにしれっと便乗する。まさにlookwhoさんのおっしゃる通り、例えば喪失感や孤独感、または失望、葛藤、諦念など、いわゆる陰性の感情をテーマにした楽曲をおねだりしたい。それらがメタル特有の荒々しさや破れかぶれの勢いに溶け込むとき、さながらオクシモロン(撞着語法)のような効果でもって聴く者の心をいっそう強く揺すぶるからだ。

(5)生々しい音作り
ファーストとセカンドの音作りは個人的に言って70点である。嫌いな音が出るCDを何百回と聴くわけがないのだし、Jポップとして見れば大健闘の部類だとも思うが、とはいえ、音という音が何やら半透明のすべっこいフィルムで覆われているかのような、ダイレクト感に乏しい、エフェクト過剰なサウンド・プロダクションには少々不足を感じる。耳から押し入って脳をボコボコにするような生々しい音をおねだりさせていただく。

❇︎コバさん、もう1年待つとなると正直しんどいです。

エモスウィッチ・エンゲイジ

いまいち合わないなと思って遠ざけていた音楽が、半年から数年、あるいはもっと長い空白をあいだに置いて何気なく聴いてみたときに、危うくパニック状態に陥るほど心を揺すぶってくることがある。

わたしたちはそのたびに「は? ウソだろ? こんなに良かったっけ?」と目を白黒させ、不思議の感に打たれるわけだが、しかし何のことはない、手前の好みが変化したんである。もしくは手前の耳がその音楽に追いついたんであり、手前の受け入れ態勢が整ったんである。

そんなわけで近頃は米国のメタルコア・バンド、キルスウィッチ・エンゲイジを聴く。かつての苦手意識が嘘のようにぞっこん首ったけである。何しろエモい。すこぶるエモい。あんまりにもエモいので、心密かに「エモスウィッチ・エンゲイジ」と呼びならわしている。

しかしここで誤解のないようにしておきたい。メタル界隈の皆様にすれば何を今更といったところだろうが、このバンドのエモさは、いかにも繊細さとヤンチャさとを併せ持つような当世風の若い男の子が痩躯をよじらせながらスクリームする方式のエモさとは一線を画する。もっと無骨で、自然体で、毛むくじゃらな感じなのだ。

初期のアルバム2枚をとっかえひっかえ聴くうちに妙な感覚が生じてきた。ある楽曲に先日亡くなった小神様へのレクイエム的なイメージを抱くようになったのだ。感傷の度合いで言えば『マイ・ラスト・セレナーデ』だろうし、歌詞の内容なら『ローズ・オブ・シャリン』がぴったりだ。けれどもわたしの潜在意識は次の楽曲を指差して、どうにもレクイエム的だぞと言う。

Killswitch Engage - A Bid Farewell - YouTube

土砂降りの雨を想起させるトレモロリフがやがて大きなうねりに変わり、それまでのスクリームから一転、黒人ボーカリストが力強くしなやかに歌い出すとき、まったくどういうわけか、わたしはそこに仏教的無常観のようなものを聴く。さらにはCメロのマジ半端ねえ熱量、ダイナミズム、どこか高くて脆い場所へ向かって一心不乱に駆け上がっていくかのような疾走感、そうして訪れる一瞬の、いや、永遠の静寂ーー。

虚構と現実とが混ざり合う領域でわたしたちはいろいろな景色を見る。何しろエモい。すこぶるエモい。あんまりにもエモいので、心密かに「エモスウィッチ・エンゲイジ」と呼びならわしているほどだ。

小神様の逝去に寄せて

いまになって考えるとめちゃくちゃな話だが、最初はエイプリルフールの悪い冗談だと思った。寝起きで頭がぼんやりしていたわたしは、つい先日おせち料理を食べたことや、初詣に出掛けたことなどをすっかり忘れて、その見出しの意味するところを何がなんでも否認すべく、カレンダーを3ヶ月先へ進めようとしたのだ。

意識がはっきりしてくるにつれ、悲しみよりも怒りがこみ上げてきたーー何だそりゃ。ふざけんな。そんな馬鹿な話があってたまるか。糞食らえだ、ちくしょうめ。

何しろわたしにとって神バンドは(1)BABYMETALに対するろくでもない偏見や先入観を取っ払ってくれた恩人である。(2)バンドをやっていた青春時代に思い描いたヒーローの姿そのものである。(3)ファンの最前線で女の子たちを支え、応援し、勇気付ける、論理の飛躍を百も承知で言えば戦友であり、同志であり、かけがえのない仲間である。

そんな神バンドの一員があのような形でチームを離れることになるとは想像だにしなかった。そう簡単に受け入れられる現実ではなかったし、受け入れられないからこそ涙なんぞ一滴も出やしなかった。

けれどもBOHさん、大村さん、青山さん、Ledaさん、前田さん、宇佐美さん、それからBABYMETAL公式の追悼コメントを読んでいくうちに、少しずつ内心に変化が起こってきた。一介のファンにすぎないわたしなどよりもよっぽど苛酷で、よっぽど不条理で、よっぽど糞食らえな現実をどうにか受け入れ、涙を振り払って前に進もうとする彼らの姿勢に感化されたのだと思う。

昨日、大阪城ホールのファンカムを観ていたら不意に泣けてきた。小神様の奏でるギターは、その音のひとつひとつに「藤岡幹大」の4文字が刻印されており、ああ、これだ、これなんだよと思ったときには涙が頬を伝っていた。偉大なギタリストが、BABYMETALと、そうしてわたしたちファンとともに歩んだ日々は、決して色褪せることはない。彼の貢献はBABYMETALの物語の一部として、いつまでも語り継がれていくことだろう。

先生、心からご冥福をお祈りいたします。最大限の敬意と、感謝と、胸いっぱいの名残惜しさを込めて。