あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

新曲『Distortion』の感想

待ちに待ったBABYMETALの新曲『Distortion』が先日リリースされた。「これまた随分と若々しい曲だなあ」というのが率直な感想である。

何しろメロディラインが若々しい。従来の歌謡曲の流れを汲むようなメロディラインではなく、近年のJポップのトレンドを意識したような、すなわち(1)短いフレーズの連続で畳み掛ける(2)音程をせわしなく上下させる(3)勝負どころでスタッカートを用いる、などといった特徴を持つ、言うなれば若年層の耳に届きやすいメロディラインを採用しているからだろう。

おまけに歌詞が若々しい。「汚い世界」、「偽善者」、「歪んだ痛み」など、若年層のナイーブな感性に訴えかける言葉が並ぶ。汚い世界で善人を装い続けた結果すっかり無痛症になってしまったおっさんにとっては、少々眩しいような、むず痒いような言葉がである。

こうした楽曲を作ってきたということは、それ相応の狙いがあると考えて然るべきだろう。10代20代のファンが増えるとすれば喜ばしいことだと思う。

インストに関して言えば、メタルコア、インダストリアル、Jロックからなる三色丼に濃厚なエレクトロソースをぶっかけたという印象だ。カッコイイ方面へ振り切った仕上がりだが「らしさ」を失ってはいないし、各パートの継ぎ目が驚くほどスムーズかつエレガントに出来ているのでぐいぐい引き込まれる。強いて言えば全体的に急ぎすぎの感があり、効果的なビルドアップがなされているとは言い難い点がやや残念ではあるが。

さて、数回聴くうちに早くも中毒症状が出てきた。若々しいなどと年寄りの嫉妬めいたことを抜かしつつもどうやら気に入ったらしい。正直言って期待半分不安半分だったから、この結果には大変満足している。


【YUIMETALの不在について】
先日始動した米国ツアーでYUIMETALの不在が明らかになった。もしわたしがあの会場にいたら、あるいは腹を立てていたかもしれない。やはり例のアーティスト写真と告知動画だけでは不十分だったのではないか。

ファンが望むのはYUIMETALの、いや、水野由結の幸せただひとつである。たとえそれがどのような形になろうとも、彼女が笑顔で過ごせる未来が訪れることを切に願っている。メタリカが『バッテリー』で歌うのと同じように、わたしたちは強い絆で結ばれたひとつのチームなのだから。

白笹稲荷神社

神奈川県は秦野市にある白笹稲荷神社を訪ねた。折しも骨董市が開催されており、参道から拝殿にかけて、陶器や置き物、古道具などを売る露店が並んでいた。

この新緑、この青空、この鳥居の朱塗り、この春のうららかな日差し──いったいどういうわけか、わたしはプロテスト・ザ・ヒーローのファーストアルバム『ケザイア』を思い起こした。ちなみに「ケザイア」とはアフリカの言葉で「希望」という意味なんだそうだ。

拝殿で手を合わせ、女の子たちの健康と、旅の無事と、さらなる活躍とをお祈りした。すると、どこからともなく威厳に満ちた声が聞こえてきた。「おお、渡りに船とはこのことじゃ。何しろ余はつい先日、そのべびいめたるとやらのふぁんになったばかりでな、いまだゆいめたるともあめたるの区別がつかん。男よ、どうか余にふたりの見分け方を指南してくれんじゃろうか」

拝殿の裏手はこんな具合の安らぎ空間になっている。ちなみに例の威厳に満ちた声の件だが、BABYMETAL初心者がYUIMETALとMOAMETALとを首尾よく見分けるヒントとして、わたしは──以前このブログにも書いたように──ふたりをそれぞれ花に喩えたのだった(注)。これには先方も合点がいったようである。

(注)女の子たちをそれぞれ何の花に喩えたのか?──興味を持たれた方は2016年9月12日付の記事「危なーい!」をご参照ください。

アーティスト写真10人問題

去る4月1日の午後7時過ぎだった。BABYMETAL公式のお知らせ動画に何やら不穏な空気を感じ取ったわたしは、ややあって更新されたアーティスト写真を見て茫然自失となった。メンバーが3人から10人に激増しているうえ、誰が誰なんだかわからない。

言葉を失うほどの衝撃と混乱のさなか、一編のろくでもないシナリオが閃光のようにわたしをとらえた。

きっとBABYMETALの闇を象徴する7人組が新たに加わるのに違いない。その結果、従来の3人とのあいだに軋轢が生じ、光と闇の両勢力による壮絶な覇権争いが繰り広げられるのだろう。無論、両勢力は対立を乗り越えてやがてひとつになる。互いの存在意義を認めて融和団結することで強力無比の軍団へと生まれ変わる。そうして物語が大団円を迎えるとき、例の紙芝居はこう告げてよこすのだ──光なくして闇は存在せず、闇なくしては光もまた存在し得ないのだ、うんぬんかんぬん。

おお、なんという、実にプロレス的な茶番劇。

打ち明けて言うが、何しろわたしは少年時代の数年間をプロレスとともに過ごした。身近に好きなのがいて軽く付き合った程度だが、とはいうものの、あの当時植えつけられたプロレス的思考及び発想はいまだ脳味噌のどこかでしぶとく生きながらえており、ときおり姿を現しては悪戯っ子のように振る舞う。

その悪戯っ子の心当てによると、今後のライブ会場にはステージに加えてリングが設営されるらしい。わたしたちファンは、光と闇の両勢力によるマイクパフォーマンス対決、総勢10人の女の子が入り乱れてのバトルロイヤル、さらにはトップロープに駆け上がってキツネサインを掲げるSU-METAL、あうんの呼吸でツープラトン攻撃を繰り出すYUIMETALとMOAMETAL、悪徳レフェリーに扮してカウント2.99を連発するKOBAMETALなどなどに熱狂することになるらしい。

もういい。もうたくさんだ。誰もそんなものを望んではいない。わたし個人としてはメンバー増員にだって断固反対の構えなのだ。だからどうかグラフィックノベルやアニメとの連動企画か、もしくは2枚組のサードアルバムへの布石であってほしいと願っている。

それにしてもである。毎度のことながら本当の悪戯っ子は誰なんだという話にならざるを得ない。

グラフィックノベル予約した

河出書房新社の「奇想コレクション」を集めるでもなく集めている。新品と中古とを問わず、見かけたら、そうして表紙が気に入ったら買うという方式で、気がつけば大半を所有するに至っている。

ハズレも混ざっているが概ね面白く読めるし、なかには「これぞ奇想だぜウィー!」とテキサス・ロングホーンを、否、キツネサインを掲げたくなるような大当たりがある。ダン・シモンズグレッグ・イーガンといった稀有な作家に出会えたのも、このシリーズのおかげだ。

発想する能力そのものに人種間の優劣はないと思う。にも関わらず、わたしが外国人作家の小説を好んで読むのは、それが日本で生まれ育った日本人のわたしにとってひとえに異質だからである。日本とは異なる歴史、伝統、文化、言語、気候風土、社会通念、価値体系、宗教観、美意識、ユーモア感覚、その他いろいろに根ざした発想なり、視点なり、考え方なりが、新鮮かつ刺激的に感じられるからにほかならない。

そんな外国人のフィルターを通してBABYMETALを再体験、再発見できたら楽しいに決まっている。わたしたち日本人とは異なる感性でもって描かれるBABYMETALの物語はいったいどんな具合になるのだろう。女の子たちはそれぞれどんなふうに描かれるのだろうか。

先日、例のグラフィック・ノベルを予約した。グッズに関心がないばかりか漫画も読まないわたしだが、これには不思議と興味をそそられた。理由は長々と先述した通りである。


【お詫び】
先月25日に投稿した文章「ザ・モンスター・イン・アイ」に、一部誤解を招きかねない表現がありました。不快感をもよおされた皆様に深くお詫び申し上げます。

わたし個人としては「二面性」という言葉それ自体にネガティヴな意味があるとは考えません。また、表現活動において抜きん出た仕事をなす人々の多くが内心に「モンスター」を宿すものと信じます。それを適宜解き放ってやることで、作品なりパフォーマンスなりに言葉や理屈を超えた迫真性と説得力とを付与するのです。

しかしながら、件の文章で引用した歌詞がいずれも少々エクストリームな内容であったこと、また、そのままの流れでBABYMETALの二面性を論じてしまったこと、これらの不手際を真摯に受け止め、反省材料とし、今後のブログ作りに役立てていく所存DEATH。

ザ・モンスター・イン・アイ

わたしがもっぱら洋楽を聴く理由の第3位は、「歌詞がダイレクトに理解できないのがかえって有難いから」である。かろうじて聞き取れたいくつかの単語を手掛かりに、でたらめな想像力の翼を羽ばたかすスタイルが性に合っているらしい。

ところが最近、そのスタイルに変化が生じつつある。けだしキルスウィッチ・エンゲイジとの出会いがきっかけだろう。おや面白そうだなと思った楽曲について歌詞の内容を調べるようになったのだ。

すると、うすうす気づいてはいたが、メタル音楽の歌詞が──少なくともわたしが好んで聴くバンドの大半に関しては──ネット上でしばしば揶揄されたり、ナンセンスの一言で片付けられたりするような、取るに足りない内容ではないことが判明してきた。

彼らが創出する歌詞世界は、暴力的で、強迫観念的で、ドン・キホーテ的である反面、現実的で、内観的にして思索的であるばかりでなく、どこか文学的の香りすら漂う。請け合ってもいいが、そこらへんの毒にも薬にもならない大衆音楽などとは比較にならないほど、人間存在にまつわる本質的な問いを含んでいる。

なかでも個人的に興味を掻き立てられるのが、人間の持つ二面性について描かれた歌詞である。

例えばメタリカの『サッド・バット・トゥルー』は、内なる自分が対外的な自分を説き伏せ、丸め込むかのように、馬鹿にくどくどしい催眠術めいた語り口でもって真実を伝えていくという内容になっている──「俺はお前の命だ、夢だ、唯一の親友だ、それでいて苦痛だ、憎しみだ、嘘まみれの真実だ、結局のところ俺はお前なんだよ、悲しいけれどそれが本当なのさ」

スリップノットの『ザ・デビル・イン・アイ』は、あるいは成功の陰で切り捨てられ、葬り去られた、過去の自分に対するレクイエムなのかもしれない──「お前と俺には決められない、俺たちのどちらが本来の自分だったのか、さあ代償を払おう、俺たちのどちらかだけが生き延びる運命なんだ、踏み込め、俺を巣食う悪魔を見ろ、俺たちは何度もこうやってきたじゃないか」

なるほど打ってつけの題材だなと思い至る。何しろわたしの直感が正しければ、BABYMETALは(良い意味で)いくつかの二面性をはらむグループである。また、わたしの記憶が確かならば、SU-METALは雑誌のインタビューで内心に(おそらく良い意味で)モンスターを飼っている旨の発言をしたはずだ。

「デビル」ならぬ「ザ・モンスター・イン・アイ(もちろん良い意味で)」といった内容の楽曲を、いつかは聴いてみたい。