あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

ザ・モンスター・イン・アイ

わたしがもっぱら洋楽を聴く理由の第3位は、「歌詞がダイレクトに理解できないのがかえって有難いから」である。かろうじて聞き取れたいくつかの単語を手掛かりに、でたらめな想像力の翼を羽ばたかすスタイルが性に合っているらしい。

ところが最近、そのスタイルに変化が生じつつある。けだしキルスウィッチ・エンゲイジとの出会いがきっかけだろう。おや面白そうだなと思った楽曲について歌詞の内容を調べるようになったのだ。

すると、うすうす気づいてはいたが、メタル音楽の歌詞が──少なくともわたしが好んで聴くバンドの大半に関しては──ネット上でしばしば揶揄されたり、ナンセンスの一言で片付けられたりするような、取るに足りない内容ではないことが判明してきた。

彼らが創出する歌詞世界は、暴力的で、強迫観念的で、ドン・キホーテ的である反面、現実的で、内観的にして思索的であるばかりでなく、どこか文学的の香りすら漂う。請け合ってもいいが、そこらへんの毒にも薬にもならない大衆音楽などとは比較にならないほど、人間存在にまつわる本質的な問いを含んでいる。

なかでも個人的に興味を掻き立てられるのが、人間の持つ二面性について描かれた歌詞である。

例えばメタリカの『サッド・バット・トゥルー』は、内なる自分が対外的な自分を説き伏せ、丸め込むかのように、馬鹿にくどくどしい催眠術めいた語り口でもって真実を伝えていくという内容になっている──「俺はお前の命だ、夢だ、唯一の親友だ、それでいて苦痛だ、憎しみだ、嘘まみれの真実だ、結局のところ俺はお前なんだよ、悲しいけれどそれが本当なのさ」

スリップノットの『ザ・デビル・イン・アイ』は、あるいは成功の陰で切り捨てられ、葬り去られた、過去の自分に対するレクイエムなのかもしれない──「お前と俺には決められない、俺たちのどちらが本来の自分だったのか、さあ代償を払おう、俺たちのどちらかだけが生き延びる運命なんだ、踏み込め、俺を巣食う悪魔を見ろ、俺たちは何度もこうやってきたじゃないか」

なるほど打ってつけの題材だなと思い至る。何しろわたしの直感が正しければ、BABYMETALは(良い意味で)いくつかの二面性をはらむグループである。また、わたしの記憶が確かならば、SU-METALは雑誌のインタビューで内心に(おそらく良い意味で)モンスターを飼っている旨の発言をしたはずだ。

「デビル」ならぬ「ザ・モンスター・イン・アイ(もちろん良い意味で)」といった内容の楽曲を、いつかは聴いてみたい。