BABYMETALは遍在する
BABYMETAL漬けの日々に一抹の不安を感じた。
何しろわたしはチューインガムの味が永遠に続くものではないことを知っている。幸せの絶頂にいるときほど不幸せな未来を空想するのが人間の性でもある。
「消費の速度は適正か?」とこのように自問したわたしは、当面のあいだBABYMETALの摂取を控えてみるという過酷な実験を自らに課した。
通勤中はトリヴィアムの『将軍』を聴く。不思議なもので、BABYMETALを知る前に購入した『クルセイド』に比べると、インストにしろ、メロディにしろ、驚くほど心地よく耳に入ってくる。例のズッ友写真のおかげで心理的な距離がぐっと縮まったのかもしれない。
帰宅後はフィリップ・K・ディック『聖なる侵入』の続きを読む。久しぶりの読書らしい読書である。BABYMETALに出会ってからというもの、余暇に占める読書の割合は著しく低下していたのだ。
まったくの偶然になるが、作中にザ・フォックスという女性シンガーが登場する。彼女はその美しい歌声を世界中に届けることで、人々の心が悪に傾くのを阻止している。否定的な思考にとりつかれ、自分を蔑み、他者を憎み、そうして生きることさえ投げ出そうとする人々に救いの手を差し伸べるのである。
翌日もトリヴィアムを聴きながら仕事場へ向かう。ガチガチのクラシックスタイルながら、ときおり顔を出すキャッチーなメロディに思わずニヤリとさせられる。
その夜はレコーダーに残してあった『パシフィック・リム』を観る。頬ずりしたくなるほど好きな映画だが、なかでも世界を舞台に活躍する数少ない日本人女優、菊地凛子がすばらしい。全身全霊を賭してイェーガーを操縦し、暴れ回るカイジュウどもを次々やっつける勇敢な姿が、その大役を勝ち取るにいたった彼女自身の平坦ならざる道のりにオーバーラップして、わたしの涙腺をこじ開ける。少なくとも彼女は挑戦し、乗り越え、見事にやり遂げたのだ。
さて、実験はたったの2日間で幕引きとなった。どうにも我慢できなくなって某ロックフェスのフル動画を観てしまったのである。何のことはない、わたしはBABYMETAL2日分の涙を流した。
しかしこうして振り返ってもみると、トリヴィアムしかり、ディックの小説しかり、菊地凛子しかり、わたしが2日間のうちに偶然選び取ったものすべてが多少ともBABYMETALに関連している、あるいはそこに何かしらのBABYMETAL性が含まれていることに気付く。
もしかするとBABYMETALは、仏教のいわゆる仏性さながらあらゆるものに遍在するのかもしれない。事実、わたしはチョコレートやチューインガムは無論のこと、イカゲソ、スルメ、お稲荷さん、コルセット、ポニーテールおよびツインテール、4、山手線、猫、ナマハゲ、長渕剛、果てはACミランや白井健三にまでBABYMETAL的な何かを感じているではないか。
やはりこう言わざるを得ない。BABYMETALは遍在すると。
とんでもなく頼もしい
BABYMETALが現在もカラオケでライブをやっていたらと考えることがある。
ここまで夢中になれただろうか? ライブDVDやネット動画を繰り返し観ただろうか? まして東京ドーム公演のチケットを手に入れただろうか?
何しろ人間の半分はつまらない偏見、ろくでもない先入観、および糞みたいな固定観念で出来ている。それらを取っ払って物事を見ることの難しさは誰もがよく知るところである。もし最初に観たライブ動画が神バンドなしのカラオケだったら、わたしはそれを「学芸会」の3文字で片付けたかもしれない。そうして二度と女の子たちに関心を寄せなかったかもしれない。
ちょっと泣いてしまいそうになる。いくら何でもあんまりだ。そんな馬鹿なことが、いや、しかしながら、可能性としては起こり得たと言わねばならない。
こう見えて若い頃ギターをかじっていた。
いくつかのコピーバンドでオアシス、グリーンデイ、ジ・ミッシェル・ガン・エレファントなどをまあまあ上手に弾いていた。
誤解のないようにしておくが、これらをまあまあ上手に弾くために必要なのは、有り余る時間と、少しばかりの忍耐力と、モテたいという願望のみである。センスのある人間なら1年やそこらであっさり到達し、素通りするレベルと言っていい。
しかし、そこに思いっきり楽しむというマインドさえあれば、上手いか、下手かは、関係ねーらしい。事実、当時の音楽活動はわたしにとって人生最良の思い出のひとつになっている。よくもまあ恥ずかしげもなくギターケースなんかを背負って出歩いていたなとは思うが。
さて、神バンドとは何か。
第1にそれは仲介者である。わたしのような狭量で意地っ張りな音楽フリークと女の子たちとのあいだを取り持つ、考え得るかぎり最高の橋渡し役である。
第2にそれはかつて見た夢である。若い頃のわたしのようなギターキッズから、真剣に音楽と向き合い、音楽の道を志し、そうして道半ばで敗れ去った者にいたるまで、すべての楽器経験者、バンド経験者がかつて鮮やかに思い描いたヒーローの姿そのものである。
第3にそれは、わたしたちファンの最前線で女の子たちを支え、応援し、勇気づける、とんでもなく頼もしい白塗り野郎どもである。
ありがとう神バンド。最大限の敬意を込めて。
東京ドーム
東京ドーム公演のチケットが当たった。まさかの急展開に自分でも驚いている。
何しろ当初は静観する構えだった。へええ? 東京ドーム? 2日で11万人? いいなあ、さぞかし盛り上がるんだろうなあ、いつか生で観てみたいなあBABYMETAL、といった具合に得意の先送り主義を決め込んでいたのだ。
そんなある日、わたしは禁断の盗撮映像を目の当たりにする。某夏フェスのステージを隠し撮りしたらしい数十秒足らずの動画だった。
何が起こるかなと思ってスマホの画面を凝視していると、いまやメタルクイーンとして世界に名をとどろかすSU-METALその人が、どういうわけか両手でマイクを握り、いつになくもじもじした様子で以下のような言葉を発したではないか。
「みんなの声聞かせて? 一緒に歌ってくれる?」
わたしは急性かわいい中毒を発症した。「なーにーそーれーかーわーいーいー!」が第一声なのだった。そこへ手足をばたばたさせる謎の運動が加わって、もはや自分が自分でなくなるような危機感をおぼえた。気持ちを整理すべく居間と台所とを行ったり来たりしていると、にわかに自分自身に対する怒りが湧き上がってきた。
ぐずぐずしやがってこのインポ野郎! お前の「いつか」や「そのうち」にはもううんざりなんだよ! 行けばいいでしょうが東京ドーム! 米粒だの音響だの仕事だのって細けえこたぁどうでもいいんだよ! とにかく行け! 女の子たちに会いに行け!
そんなわけで来月の20日、わたしははじめての生BABYMETALを体験することになる。
東伏見稲荷神社
車で1時間ほどの界隈にちょっと有名なお稲荷さんがあるというので行ってみた。
何でも例の伏見稲荷大社から分霊してもらって建てた神社なんだそうだ。境内に足を踏み入れた瞬間、わたしの脳内で『メギツネ』の再生ボタンが押されたことは言うまでもない。
わたしは女の子たちの健康と、旅の無事と、さらなる活躍とをお祈りした。
すると、どこからか威厳に満ちた声が聞こえてきた。「そのことなら心配はいらん。すでに根回しは済んでおる。お前が祈ろうと祈るまいと、女の子たちの未来は約束されておるのだ。それはそれはキンキラリーンであるぞ」
うすうすそんな気はしていた。
ちなみに本殿の裏手はこういう具合になっている。
いろいろの神様が祀られてある。あのちっさいキツネが欲しかったのだが、社務所には売っていなかった。
ほとんど魔法
わたしの見立てによれば、メタル音楽はマッチョイズム(男っぽさの誇示)とナルシシズム(自己陶酔)の混合物である。
その混ぜ合わせはバンドや楽曲によっていろいろだが、例えば「あのバンドは7:3の割合でナルシシズムが強いね」とか、「やつらは8:2でマッチョイズムを前面に押し出しているぜ」などといった言い方が、少々乱暴ではあるができるように思う。
個人的に言ってナルシシズムの強いメタル音楽が苦手だ。例のハイトーンヴォイス、自慰主義的なギターソロ、嫌に扇情的で仰々しいコード進行など、何もかもが生理的に無理なのだ。架空の嘔吐感をもよおすほどである。
ではBABYMETALの音楽はどうだろうか。
話をわかりやすくするために、SU-METALのソロ曲『紅月-アカツキ-』を例に考えてみたい。
まずはこの楽曲を男子が自己陶酔感たっぷりに、腰をクネらしながら歌うさまを想像する。ガクトでも、ハイドでも、エグザイルでも、とにかくナルシストっぽい男なら誰でもよい。
勘弁してください!もう許してください!お昼に食べた架空のナポリタンを比喩的に嘔吐してしまいそうです!
当然こうなる。
楽曲そのものがすでに相当量のナルシシズムを含有しているからだ。
ことにザラつくギターのアルペジオではじまるイントロ、そうしてツインギターが織りなす間奏部分は、俗に言うクサメタルの真骨頂と形容すべき代物である。そこへさらに男のナルシスティックな歌声が加わろうものなら、わたし個人の感覚としてはほとんど拷問だ。犯してもいない罪をうっかり自白しかねない。
では逆にSU-METALが歌うことで何が起きたのか。
彼女の真っ直ぐで、ひたむきで、外連味のない歌声によって、本来ナルシシズムの強い楽曲それ自体が何かしら別のものへと変質したのではないか、というのがわたしの見立てである。
そうでなければ筋が通らない。わたしのようなナルシシズム・アレルギーの人間がこうも心を揺すぶられるはずがない。
BABYMETALの音楽ではこのような化学反応がいたる場所で起きている。メタル音楽特有のナルシシズムは消臭され、中和され、分解されると同時に、より普遍的な意味での美しさや純粋さ、さらには気高さや勇敢さといったようなものへと変化を遂げている。
そのひとつひとつの瞬間に、年齢、性別、国籍を問わず多くの音楽ファンが長年待ち焦がれていた、いまだかつて誰も体験したことのない、まったく新しい物語が紡ぎ出されているのである。
これはもう、あれだ、ほとんど魔法。