あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

SU-METALに首ったけ

野郎どもの音楽ばかりを聴いてきた。所有するCDに占める女性ボーカルの割合はたったの数パーセントにすぎず、自信を持って聴き込んだと言えるアルバムとなるとBABYMETALを含めても10枚に届かない。

何故なんだろうと自己分析してみると、異性としての魅力が否応なしに干渉してくるのが面倒臭いからだと気づく。つまり、純粋に音楽そのものを楽しめている状態なのか、それとも程度の差こそあれ何やら甘い香りに釣り込まれている状態なのか、そのあたりの不明瞭がどうにも鬱陶しく感じられ、遠ざけてしまうのである。

無論、そうした不明瞭の領域にリスナーを引き込むのが大衆音楽の仕掛けのひとつであることは承知している。異性としての魅力とセールスとに相関性を指摘する仮説もあるくらいだし、そもそも歌や踊りが誰の何に訴求すべく生まれ、発展してきたかは、Kポップやレゲエダンスの露骨さを見ずとも想像に容易いところだ。

ごちゃごちゃうるせえなブタ野郎、じゃあBABYMETALはどうなんだとあなたは言うだろう。この際だから洗いざらい白状しちまえよと。

打ち明けて言うが、これまでは「かわいいかわいい」と念仏のように唱えておけば万事丸く収めることができていた。かわいいに便乗し、かわいいを便利遣いし、かわいいの上へあぐらをかいていたとさえ言えるかもしれない。一方ではBABYMETALの楽曲や見てくれがそのような態度を推奨していたのも事実だと思う。

ただもう無理なんじゃねえのかとわたしは思うのだ。かわいいを超えた異性としての魅力が否応なしに干渉してくる事態は最早避けられないのではあるまいか。例えばSU-METALの新ソロ曲における「わかることでしょ?」ないし「バレることでしょ?」の「でしょ?」などは、どう聴いたってかわいいの範疇を超え、思わずギクリとさせられる耳触りを帯びているではないか。

こうなった以上、全力で釣り込まれていくのが最善の道に違いない。音楽だか何だか判然としない例の不明瞭の領域に自ら踊り込んでいく姿勢こそが、結局のところ楽しみを最大化するに違いない──そんなふうに考える今日この頃である。

何にせよ、わたしはSU-METALに首ったけだ。それだけで十分だろう。こんな長々しい文章にいったい何の意味がある?