あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

アーティスト写真10人問題

去る4月1日の午後7時過ぎだった。BABYMETAL公式のお知らせ動画に何やら不穏な空気を感じ取ったわたしは、ややあって更新されたアーティスト写真を見て茫然自失となった。メンバーが3人から10人に激増しているうえ、誰が誰なんだかわからない。

言葉を失うほどの衝撃と混乱のさなか、一編のろくでもないシナリオが閃光のようにわたしをとらえた。

きっとBABYMETALの闇を象徴する7人組が新たに加わるのに違いない。その結果、従来の3人とのあいだに軋轢が生じ、光と闇の両勢力による壮絶な覇権争いが繰り広げられるのだろう。無論、両勢力は対立を乗り越えてやがてひとつになる。互いの存在意義を認めて融和団結することで強力無比の軍団へと生まれ変わる。そうして物語が大団円を迎えるとき、例の紙芝居はこう告げてよこすのだ──光なくして闇は存在せず、闇なくしては光もまた存在し得ないのだ、うんぬんかんぬん。

おお、なんという、実にプロレス的な茶番劇。

打ち明けて言うが、何しろわたしは少年時代の数年間をプロレスとともに過ごした。身近に好きなのがいて軽く付き合った程度だが、とはいうものの、あの当時植えつけられたプロレス的思考及び発想はいまだ脳味噌のどこかでしぶとく生きながらえており、ときおり姿を現しては悪戯っ子のように振る舞う。

その悪戯っ子の心当てによると、今後のライブ会場にはステージに加えてリングが設営されるらしい。わたしたちファンは、光と闇の両勢力によるマイクパフォーマンス対決、総勢10人の女の子が入り乱れてのバトルロイヤル、さらにはトップロープに駆け上がってキツネサインを掲げるSU-METAL、あうんの呼吸でツープラトン攻撃を繰り出すYUIMETALとMOAMETAL、悪徳レフェリーに扮してカウント2.99を連発するKOBAMETALなどなどに熱狂することになるらしい。

もういい。もうたくさんだ。誰もそんなものを望んではいない。わたし個人としてはメンバー増員にだって断固反対の構えなのだ。だからどうかグラフィックノベルやアニメとの連動企画か、もしくは2枚組のサードアルバムへの布石であってほしいと願っている。

それにしてもである。毎度のことながら本当の悪戯っ子は誰なんだという話にならざるを得ない。

グラフィックノベル予約した

河出書房新社の「奇想コレクション」を集めるでもなく集めている。新品と中古とを問わず、見かけたら、そうして表紙が気に入ったら買うという方式で、気がつけば大半を所有するに至っている。

ハズレも混ざっているが概ね面白く読めるし、なかには「これぞ奇想だぜウィー!」とテキサス・ロングホーンを、否、キツネサインを掲げたくなるような大当たりがある。ダン・シモンズグレッグ・イーガンといった稀有な作家に出会えたのも、このシリーズのおかげだ。

発想する能力そのものに人種間の優劣はないと思う。にも関わらず、わたしが外国人作家の小説を好んで読むのは、それが日本で生まれ育った日本人のわたしにとってひとえに異質だからである。日本とは異なる歴史、伝統、文化、言語、気候風土、社会通念、価値体系、宗教観、美意識、ユーモア感覚、その他いろいろに根ざした発想なり、視点なり、考え方なりが、新鮮かつ刺激的に感じられるからにほかならない。

そんな外国人のフィルターを通してBABYMETALを再体験、再発見できたら楽しいに決まっている。わたしたち日本人とは異なる感性でもって描かれるBABYMETALの物語はいったいどんな具合になるのだろう。女の子たちはそれぞれどんなふうに描かれるのだろうか。

先日、例のグラフィック・ノベルを予約した。グッズに関心がないばかりか漫画も読まないわたしだが、これには不思議と興味をそそられた。理由は長々と先述した通りである。


【お詫び】
先月25日に投稿した文章「ザ・モンスター・イン・アイ」に、一部誤解を招きかねない表現がありました。不快感をもよおされた皆様に深くお詫び申し上げます。

わたし個人としては「二面性」という言葉それ自体にネガティヴな意味があるとは考えません。また、表現活動において抜きん出た仕事をなす人々の多くが内心に「モンスター」を宿すものと信じます。それを適宜解き放ってやることで、作品なりパフォーマンスなりに言葉や理屈を超えた迫真性と説得力とを付与するのです。

しかしながら、件の文章で引用した歌詞がいずれも少々エクストリームな内容であったこと、また、そのままの流れでBABYMETALの二面性を論じてしまったこと、これらの不手際を真摯に受け止め、反省材料とし、今後のブログ作りに役立てていく所存DEATH。

ザ・モンスター・イン・アイ

わたしがもっぱら洋楽を聴く理由の第3位は、「歌詞がダイレクトに理解できないのがかえって有難いから」である。かろうじて聞き取れたいくつかの単語を手掛かりに、でたらめな想像力の翼を羽ばたかすスタイルが性に合っているらしい。

ところが最近、そのスタイルに変化が生じつつある。けだしキルスウィッチ・エンゲイジとの出会いがきっかけだろう。おや面白そうだなと思った楽曲について歌詞の内容を調べるようになったのだ。

すると、うすうす気づいてはいたが、メタル音楽の歌詞が──少なくともわたしが好んで聴くバンドの大半に関しては──ネット上でしばしば揶揄されたり、ナンセンスの一言で片付けられたりするような、取るに足りない内容ではないことが判明してきた。

彼らが創出する歌詞世界は、暴力的で、強迫観念的で、ドン・キホーテ的である反面、現実的で、内観的にして思索的であるばかりでなく、どこか文学的の香りすら漂う。請け合ってもいいが、そこらへんの毒にも薬にもならない大衆音楽などとは比較にならないほど、人間存在にまつわる本質的な問いを含んでいる。

なかでも個人的に興味を掻き立てられるのが、人間の持つ二面性について描かれた歌詞である。

例えばメタリカの『サッド・バット・トゥルー』は、内なる自分が対外的な自分を説き伏せ、丸め込むかのように、馬鹿にくどくどしい催眠術めいた語り口でもって真実を伝えていくという内容になっている──「俺はお前の命だ、夢だ、唯一の親友だ、それでいて苦痛だ、憎しみだ、嘘まみれの真実だ、結局のところ俺はお前なんだよ、悲しいけれどそれが本当なのさ」

スリップノットの『ザ・デビル・イン・アイ』は、あるいは成功の陰で切り捨てられ、葬り去られた、過去の自分に対するレクイエムなのかもしれない──「お前と俺には決められない、俺たちのどちらが本来の自分だったのか、さあ代償を払おう、俺たちのどちらかだけが生き延びる運命なんだ、踏み込め、俺を巣食う悪魔を見ろ、俺たちは何度もこうやってきたじゃないか」

なるほど打ってつけの題材だなと思い至る。何しろわたしの直感が正しければ、BABYMETALは(良い意味で)いくつかの二面性をはらむグループである。また、わたしの記憶が確かならば、SU-METALは雑誌のインタビューで内心に(おそらく良い意味で)モンスターを飼っている旨の発言をしたはずだ。

「デビル」ならぬ「ザ・モンスター・イン・アイ(もちろん良い意味で)」といった内容の楽曲を、いつかは聴いてみたい。

時間のかかる彫刻

メタル歴10年余りにして先月ついにアイアン・メイデンにたどり着いた。到底無理だろうと思っていただけに感慨もひとしおである。しかも単にたどり着いただけでなく、マジかっこいいぜヒャッハーと感じた。そう感じられた手前の変化にちょっと感動してしまった。

何しろほんの数年前まで、わたしはメタル村のごく限られた界隈をうろつくばかりの半端者にすぎなかった。他の追随を許さぬ攻撃性と変態性とに心を奪われつつも、例のハイトーンヴォイス、演奏テクニックのひけらかし行為、隙あらばハモってくるツインギター、嫌に仰々しく煽情的なメロディや楽曲構成、などなどが放つメタル特有のクサさに苦手意識を抱いていたからだ。

したがって比較的クサくないメタルばかりを選んで聴いていた。この年齢にもなると音楽は全き自己満足の世界だからそれで十分なのだったが、しかし一方では、メタル村の中心部に立ち入ることができない自分に漠とした不甲斐なさを感じていたのも事実である。

そんな半端者を変えたのは──いまになって考えるとそれこそ明確に──BABYMETALとトリヴィアムだった。

どちらも第一印象は悪かった。前者はアイドルなんか聴けるかよと一度は諦めかけたし、後者にいたってはクサすぎて聴けず、長らく放置していたほどだ。それが両者の大ファンになったことで、結果的にクサい方面のメタルをあれこれ勉強させてもらったのだと思う。

作家のシオドア・スタージョンは短編『時間のかかる彫刻』で、取っ掛かりに盆栽を、そうして最終的には人間という生き物を、表題通り「時間のかかる彫刻」と比喩している。畢竟ずるに、能動と受動とを問わず、また好むと好まざるとに関わらず、わたしたちは、いや、少なくともわたしたちの好み、感じ方、心のありようは、そこへ加わる何かしらの力によって時間とともに変わっていく、もしくは変えることができるという話だ。

だからこそわたしはメタルの中心部にたどり着けたのだろう。それにしてもアイアン・メイデンをマジかっこいいぜヒャッハーと感じる日が来るとは自分ながら想定外だった。どうやら人間というのは、わたしたちが思う以上にぐにゃぐにゃとした可塑的な生き物らしい。

さて、ライブ盤に加えてスタジオ盤2枚を聴くところ、アイアン・メイデンの音楽は懐かしくもあり、と同時に新しくもある。こうした印象こそアイアン・メイデンの影響力が現在進行形である証拠に違いない。

シャッフル再生は魔法だよ

10年前に買ったウォークマンがほんの数時間で力尽きてしまうので、新しいデジタル音楽プレイヤーを取り寄せることにした。これに手持ちのCDから選りすぐったメタル約500曲を落とし込み、シャッフル再生して楽しむ魂胆なのだった。

さて、結論から言ってこんなものはほとんどドラッグである。何しろ絶え間なく押し寄せるメタルの奔流に身を委ねるだけで癒しと安らぎとが得られるうえ、空元気のようなものまで湧き上がってくる──あくまで個人の感想です。効果・効能を保証するものではありません。また、強い常習性がありますのでご注意ください。

くわえて肝心のシャッフル再生がしばしば味な仕事をやってよこす。なかんずく荒ぶるメタル野郎どもの間隙を突いて、天使のような女の子たちがひょっこり顔を出す瞬間の胸のときめきは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。

試しに想像してごらんなさい──パンテラの『ファッキン・ホスタイル』に続いて『おねだり大作戦』が再生される有様を。あるいはメタリカの『バッテリー』に続いて『あわだまフィーバー』が、アイアン・メイデンの『誇り高き戦い』に続いて『イジメ、ダメ、ゼッタイ』が、スリップノットの『スピット・イット・アウト』に続いて『テイルズ・オブ・ザ・デスティニーズ』が、まるで魔法のように鼓膜を揺すぶってくる有様を。

冗談じみたコントラストに思わず頰がゆるむ。いや、本当を言えばBABYMETALの楽曲が再生されるたびにフフッと吹き出してしまう。と同時に、しかし何故なんだろうか、わたしは得体の知れない感動をおぼえるのだ。

こうやって偉大な先人たちと混ぜこぜにして聴いてこそ実感する、BABYMETALのBABYMETALたるゆえん。

感動と言えば先日、冬季五輪の女子スケルトンを見るともなく見ていたときのことである。シャッフル再生がアヴェンジド・セブンフォールドの『ビースト・アンド・ザ・ハーロット』を選曲してよこした。すると、信じられますか、このクサすぎて鼻のひん曲がるようなメロスピがスケルトン女子たちの勇猛果敢な滑りにぴたりと重なって、わたしは不覚にも涙ぐんでしまった。

このように、メタルのシャッフル再生は、快楽性および常習性の意味でほとんどドラッグであり、しばしば不思議のわざを引き起こすの意味でほとんど魔法である。いずれ24時間ぶっ続けで聴いてみるつもりだ。