あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

いわゆるロス疑惑

BABYMETALがステージ裏へ引っ込んで1ヶ月余りが経過し、日常はかつての落ち着きを取り戻しつつある。わたしは日々適量のメタル音楽を聴き、週に数本の映画を観て、毎晩自然とまぶたが閉じるまで本を読んでから、いびきと寝言と寝返りの世界に落ちていく。

先回報告したフランスのニューメタル・バンド、ワッチャのアルバムを2枚手に入れた。久しぶりに聴くガチのニューメタルは、何だかこう、猛然と詰め寄ってくる感じがうれしい。

同じく先回名前を挙げたスウェーデンデスメタル・バンド、アヴァターだが、こちらは自分でも少々戸惑うくらいファンになってしまったらしく、俗に言う「もっともっとほら!」の状態である。それだのにアマゾンの野郎、いっこうに送ってよこす気配がない。だから同じのばかり聴く。

アヴァターと言えば昨年、どこかのメタルフェスでBABYMETALのステージを見学していたようだ。

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ハハッ! 何だこの真顔!

さて先日、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙ーサイレンスー』を観た。脱水症を危ぶむほど涙が出た。この内心のざわめきをどうにかしてBABYMETALにこじつけてやろうと思ったものの、何度チャレンジしても同じ袋小路に迷い込んでストロング金剛の餌食になる風雲たけし城のパターンなので断念した。腹立ちまぎれに遠藤周作を読み直している。

かれこれ10年近く前、多摩霊園に隣接するカトリック墓地へ遠藤周作の墓を訪ねたことがある。梅雨明け間近の強い日差しを受けてきらきらと照りかがやく四角な石に、「洗礼名パブロ」の文字が彫りつけてあった。

わたしは特定の宗教を持たない。しかしだからと言って、目に見えない何かを強く信じたり、届くはずもない祈りを捧げたり、生涯近づくことさえかなわない誰かのことを熱心に考えたりする姿勢なり、気組みなりを、頭ごなしに否定するほど鈍感な人間ではない。むしろそうした独り相撲のあれこれが現在のわたしを形作ったと言って過言ではないだろう。

かつての落ち着きを取り戻しつつある日常は、ところが一方でごまかしようもない不足の感を浮き彫りにする。虚勢を張っていても仕方がないから白状してしまうが、よろしいか、わたしはBABYMETALの新曲が聴きたい。アニメが見たい。ライブに行きたい。

この野郎やりやがったな! それだけのためにこうも長々と!

見ーつけた!

日々の音楽漁りに一定の成果が見られたので以下に報告する。

某所で紹介してもらったフランスのニューメタル・バンド。聴いた瞬間「これだああ!」と小躍りした。ディスコとメタルの見事な融合と評すべき快作である。ファンク寄りのボーカルスタイルがこの界隈では珍しいばかりか、ほかの楽曲を聴いてみると、サウンド的にもありきたりなニューメタルとは一線を画するようだ。リズム隊にしろ、ギターワークにしろ、ちょっとしたひねりが効いていて面白い。しかしどうやったら音源が手に入るのか。

このパンテラ風のリフに心を奪われた。アルバムを取り寄せたところ、見た目こそデスメタル気味だが、グルーヴメタル、フォークメタル、インダストリアルメタル、ハードロック寄りの楽曲など手広くやるようであり、とりわけ民族音楽っぽいメロディやリフが新鮮に聞こえるのだった。箸休め的とまでは言わないが少々風変わりなものが聴けて楽しいし、若干スベっている感じも逆にかわいい。同時に注文したもう1枚はいまだに配送準備中である。

本来この手のキラキラしたメタルは好まない。先日も巷で人気のアヴェンジド・セブンフォールドを購入してみたのだが、案の定クサメタル成分が濃すぎて数回聴いたのみで投げてしまった。そんなわたしがこのバンドには不思議な魅力を感じている。何しろ若い。若いのに変態テク。変態テクなのにやらしい感じがしない。技量の差こそあれ、青春パンクを聴くような、懐かしい、清々しい気分が起こってくる。現在の音楽性とは多少とも異なるようだが。

未知のバンドに出会って「よし! のめり込むぞ!」という時期の高揚感ったらない。なかでも注目はプロテスト・ザ・ヒーローである。彼らの音楽をきっかけに新しい扉が開くかもしれないからだ。メタルコアか? プログレか? ジェントか? まさかのクサメタルか?

YouTubeに感謝だ。わたしの若い頃は新しい音楽に出会う方法は限られていた。いや、そこまで大昔の話でもないが、まあ確かに、アステルPHSを使っていた記憶はある。

BABYMETALはヘヴィメタルか?

愚問である。メタル歴10年弱の鼻垂れ小僧にさえ、自信満々でこう断言することができる。お嬢さん、ご安心なさい、あれは正真正銘のヘヴィメタルなんですよと。

しかし一方で「BABYMETALはメタルに非ず」と息巻く人々が世界中に数多く存在する。彼らの主張はおおむね以下の4つに集約されるようである。それらひとつひとつに対してわたしなりの見解を述べておきたい。

「こんなのただのアイドルだろ」
メタルをまったく聴かない人の耳にはそう感受せられるらしい。

「金儲け主義の作りものだ」
作りものには相違ない。しかしわたしの見立てによると、BABYMETALは商売人ではなく一流の趣味人の手になる作りものである。

「自作自演のバンドではない」
わたしも自ら作った楽曲を自ら演奏する「バンド」という形態に強い思い入れを抱く人間のひとりである。だから気持ちは理解できるし、その拘りさえ取っ払ってしまえば、あとはもう薄笑いを浮かべながら真っ逆さまに堕ちていくだろうことも、ついでに予測できる。

「カワイイはメタルの精神に反する」
映像作品やファンカムを観ると、ゴリゴリのメタラー連中がBABYMETALに首ったけなのがわかる。個人運営の著名なレビューサイトをいくつか巡ってみても、過去に何万曲とメタルを聴いてきた猛者たちがBABYMETALに軒並み高評価を与えている。この違いはいったい何なのだろう。かたやメタルの精神に反するという。かたや革新的かつ本格的で面白いグループだという。単なる好き嫌いの問題なのか、それとも度量の差なのか。

冒頭で述べた通り、わたしはBABYMETALを完全なヘヴィメタルと考える。何しろツーバスの連打が聞こえる。多弦ベースがうねりまくっている。ややこしいブリッジミュートが右から左から打ち寄せてくる。これをメタルじゃないと言うのはさすがに無理だ。甘ったるいチョコレートと生クリームとでコーティングされているにせよ、ステーキはステーキなのだ。

無論、良くも悪くもJポップ的に洗練された楽曲構成、直ちに口ずさめてしまうほどキャッチーなメロディなど、ヘヴィメタル本来のゴツゴツとした質感、すなわち一種の冗長さや頑迷さ、無骨さ、気難しさ、近寄り難さのようなものに欠けるのも事実だろう。

だから何だ。BABYMETALはおもてなしの国で生まれた新しいヘヴィメタルである。少しくらい気が利いていたって何ら不思議はない。

アイドルってすげーなー

これまでに何度となく述べた通り、わたしはアイドルを度外視して生きてきた。それは人生のかなり早い段階で「興味なし」の箱に仕分けられた何だかんだのひとつなのだった。

ところが昨年の春、状況は一変した。女の子たちの画像で日々目方を増すスマホひとつをとってみても、わたしがBABYMETALのアイドル的側面にまんまと丸め込まれ、すっかり骨抜きにされ、手乗り文鳥さながら手なずけられているのは最早争うべからざる事実である。

こうなってしまった以上、アイドルの特長や特質について少々論じておくのが道理だろう。

第1にかわいい。震え上がるほどかわいい。しかも過酷なトレーニングの成果と思しき顔芸や発声を含む挙動のひとつひとつがいちいち可愛らしい。かわいいのが可愛らしく振る舞うんだから無敵であり、お手上げであると同時に、ほとんど猫である。

第2にあれだけ繊細かつハードに踊りながら歌う。もしあなたが楽器経験者ならば、複雑な演奏をこなしながら歌うことの難しさをご理解いただけると思う。要はそれと同じで、女の子たちは、ジミヘンやメタリカのジェイムズ、ローリー寺西などの抜きん出たギターボーカルに引けを取らない離れ業、すなわち極めて高度な「ながら作業(マルチタスク処理)」を、歌と踊りとで実行しているのである。

第3に代償行動の対象として打ってつけの存在である。何しろ独身のおっさんがファンを公言し、大はしゃぎで応援し、ブログに長々しい文章を書いたところでせいぜいキモがられる程度で済む。一般人を相手に同じことをやったら警察沙汰である。つまりアイドルとは文字通りの偶像であると同時に広い意味での福祉であり、また一種の減圧弁でもあるのだろう。

BABYMETALに出会って1ヶ月余りが過ぎた頃、わたしは以下のような洞察を得るに至った。(1)この内心の無闇に浮つく感じはどこかしら片想いに似ている。(2)この生活の妙にうるおう感じは猫を飼っている状態に近い。(3)そら毎日が楽しいに決まっておる。

結論:実際に体験してみるとアイドルってすごい。感心した。

ひとつ残念なお知らせがある。わたしは、しかしだからと言って、ほかのアイドルを試す気など毛頭ない。違うからだ。BABYMETALとは全然違う。あんなのは3秒と聴いていられない。

メタリカさん

若い頃のわたしはヘヴィメタルを毛嫌いしていた。生まれて初めて見聞きしたメタルバンドがあのエックスだったからである。

見た目、音楽性、世界観、何もかもが生理的に無理であり、足がすくむほどの文化的隔絶を感じた。そうして「ヘヴィメタル=化粧した男たちがうるさい演奏をやるところへ金切り声が乗っかってくる音楽」という固定観念が出来上がってしまった。

時は流れて学生時代である。学園祭で軽音サークルのメタルバンドを観たときも、金髪にピアス、古着のTシャツに薄汚れたデニムを穿き、オルタナティブ・ロック界隈の住人を気取っていたわたしは、それを単に仰々しくて野暮ったい音楽とみなした。もっとも、同じくギターをたしなむ者として、またバンド小僧の端くれとして、その絶望的なまでの技量の差に人知れず打ちのめされはしたが。

そんな不心得者をメタル界隈へ引っ張り込んでくれたのがメタリカだった。

初めて『フューエル』を聴いたあの夜の静かな興奮を、わたしはいまだに忘れられずにいる。「おや? 普通に聴けるんですけど?」と、わたしは眉間にしわを寄せた。「ていうか普通にかっこいいんですけれども?」

しかし何故メタリカだったのか。何故『フューエル』を選んだのか。何故20代後半にもなってヘヴィメタルにチャレンジしたのか。人生は「?」の連続である。

とりあえず『リロード』と『セイント・アンガー』で耳を慣らすうちに『デス・マグネティック』が発売された。それを聴いたわたしはメタリカに全幅の信頼を寄せるにいたった。かつて『孤独の円盤』を読んでひとりの人間としてのシオドア・スタージョンが大好きになったように、あるいは『マグノリア』を観てポール・トーマス・アンダーソンの才能に疑いの余地がないことを悟ったように。

要するに恩人なのだ。現在のわたしがメタル好きなのは、メタリカがわたしの固定観念を叩き壊すのみならず、ヘヴィメタルの「いろは」を教えてくれた結果にほかならない。もしあのおじさんたちに出会っていなければ、当然ながらBABYMETALのファンになる未来も訪れなかったはずだ。

先日、そんなメタリカとBABYMETALのズッ友写真が公開された。笑い泣きという現象はそう頻繁に起こるものではないが、しかしあの一連の画像には、わたしの腹の皮をよじれさすと同時に涙腺をこじ開ける何かがばっちり写っていた。

そのときのわたしの反応を顔文字を用いて表現する。ヽ(;▽;)ノ 「すげー! マジかよ! メタリカさんノリノリじゃないすか!」