あんたのどれいのままでいい

BABYMETAL中毒者の手記

メタリカさん

若い頃のわたしはヘヴィメタルを毛嫌いしていた。生まれて初めて見聞きしたメタルバンドがあのエックスだったからである。

見た目、音楽性、世界観、何もかもが生理的に無理であり、足がすくむほどの文化的隔絶を感じた。そうして「ヘヴィメタル=化粧した男たちがうるさい演奏をやるところへ金切り声が乗っかってくる音楽」という固定観念が出来上がってしまった。

時は流れて学生時代である。学園祭で軽音サークルのメタルバンドを観たときも、金髪にピアス、古着のTシャツに薄汚れたデニムを穿き、オルタナティブ・ロック界隈の住人を気取っていたわたしは、それを単に仰々しくて野暮ったい音楽とみなした。もっとも、同じくギターをたしなむ者として、またバンド小僧の端くれとして、その絶望的なまでの技量の差に人知れず打ちのめされはしたが。

そんな不心得者をメタル界隈へ引っ張り込んでくれたのがメタリカだった。

初めて『フューエル』を聴いたあの夜の静かな興奮を、わたしはいまだに忘れられずにいる。「おや? 普通に聴けるんですけど?」と、わたしは眉間にしわを寄せた。「ていうか普通にかっこいいんですけれども?」

しかし何故メタリカだったのか。何故『フューエル』を選んだのか。何故20代後半にもなってヘヴィメタルにチャレンジしたのか。人生は「?」の連続である。

とりあえず『リロード』と『セイント・アンガー』で耳を慣らすうちに『デス・マグネティック』が発売された。それを聴いたわたしはメタリカに全幅の信頼を寄せるにいたった。かつて『孤独の円盤』を読んでひとりの人間としてのシオドア・スタージョンが大好きになったように、あるいは『マグノリア』を観てポール・トーマス・アンダーソンの才能に疑いの余地がないことを悟ったように。

要するに恩人なのだ。現在のわたしがメタル好きなのは、メタリカがわたしの固定観念を叩き壊すのみならず、ヘヴィメタルの「いろは」を教えてくれた結果にほかならない。もしあのおじさんたちに出会っていなければ、当然ながらBABYMETALのファンになる未来も訪れなかったはずだ。

先日、そんなメタリカとBABYMETALのズッ友写真が公開された。笑い泣きという現象はそう頻繁に起こるものではないが、しかしあの一連の画像には、わたしの腹の皮をよじれさすと同時に涙腺をこじ開ける何かがばっちり写っていた。

そのときのわたしの反応を顔文字を用いて表現する。ヽ(;▽;)ノ 「すげー! マジかよ! メタリカさんノリノリじゃないすか!」

2枚のアルバムを語る

今日までにBABYMETALのアルバムを2枚合わせて500回は聴いたはずである。繰り返し聴くなかで当初はぐにゃぐにゃしていた印象や評価が少しずつ固まってきた。

ここらでそれぞれを総合的に語ってみたい。

1枚目の『BABYMETAL』は「メタルとアイドルの融合」を強く意識して制作されたように思われる。メタルのど真ん中に切り込むんだといった野心や当事者意識はほとんど感じられず、あくまで俯瞰的な、ある意味では部外者的な立場から各種素材をコラージュし、何にしろ新奇なものを世に送り出すことに主眼が置かれている。

こうした姿勢によって『ド・キ・ド・キ☆モーニング』や『いいね!』に代表される実験的かつ挑発的なクロスオーバーが実現した。また、メタル音楽に対する愛のあるいじり、パロディやオマージュ、女の子たちの若さを逆手に取ったような切り口が随所に散りばめられるなど、全体としてほどよく肩の力が抜けた、遊び心満載の作品に仕上がっている。

一方で2枚目の『METAL RESISTANCE』は「サブジャンルとしての『カワイイメタル』の確立」をテーマに制作されたような印象を受ける。前作との決定的な違いはその当事者意識の高さにあり、あくまでメタル村の住人として、ジャンルの一構成員としてのBABYMETALを世に知らしめることに主眼が置かれている。

また、女の子たちの年齢的、技術的な成長にともなって過剰な少女趣味やアイドル性が取り除かれ、さらに多くのリスナー、とりわけメタルファンに訴求する普遍的かつ本格的なアプローチが採用された。こうした舵取りによって前作のカオス感や遊び心は多少薄れたものの、全体としてはしっかりと抑制の効いた、統一感のある作品に仕上がっている。

どちらが上だ下だと順序付けするつもりは寸毫ない。中学校と高校の卒業アルバムを見比べてうんぬんしたって仕方がないのと同じである。強いて言えば2枚目のほうを多めに聴いたような気もするが、まあ誤差の範囲と言っていい。いずれも非常によく出来たアルバムである。

さて、3枚目はいったいどのような内容になるのか。発売予定日だけでも教えてくれたら助かる。たとえそれが何年後であろうと、わたしは毎日カウントダウンのセレモニーを執り行うだろう。

個人的にはディスコがほしい。是非とも70年代ディスコとメタルの融合をお願いしたい。何やらとんでもないことが起こる予感がするのだ。

今年の漢字は「狐」

わたしが所有するBABYMETALのアルバムに異変が生じている。

台風16号が関東地方に大雨を降らせたあの夜からというもの、ライブ盤に勝るとも劣らない生々しい音を鳴らしてよこすようになったのだ。

記憶である。いまだ胸のうちにくすぶる東京ドーム公演の記憶がCDの音に特殊なエフェクトを施し、一種の知覚異常を引き起こしていると見てまず間違いない。

この現象に打ってつけの比喩があるにはある。しかし露骨な下ネタになってしまうので誠に遺憾ながら自粛させていただく。何にしろ架空のライブ感が上乗せされて聞こえるのだから有難い話だし、おかげで賞味期限がずいぶん延びたように感じられる。

キオク、きおく、記憶と言えば、最近ふと大事なことを思い出した。

わたしはあの頃のどこかで少々無理をした。自分をひん曲げてでもBABYMETALのファンになってしまおうと腹をくくったのである。

何しろ若い女の子たちが自分の好きなメタル音楽に一生懸命取り組んでいるのが嬉しかった。ステージの上下を問わず加齢臭の充満するメタル界隈に甘酸っぱい香りを持ち込んでいるのが有難かった。糞の山という形容がまだ手ぬるいと感じられるほど堕落しきった日本の大衆音楽に一石を投じているのが痛快だった。

もし電車で偶然隣り合わせた女子中高生がカート・ヴォネガットシオドア・スタージョン、あるいは夏目漱石夢野久作なんかを熱心に読んでいたら、わたしは嬉しくて仕方がないだろうと思う。例の不審者情報を配信される危険を冒してまで声をかけたくなるかもしれない。

「20日午後、小田急線の車内にて中年男が女子生徒に声をかける事案が発生。男は女子生徒が読んでいた文庫本を指差して『ありがとう』と言ったのち、満足げな表情を浮かべて降車した。なお、男は奇妙なヒゲを生やしており(以下略)」

そういうものだ。いや、そういうものだ。

唯一にして最大の障壁はBABYMETALのアイドル的側面、すなわち獰猛なまでの可愛らしさにあった。わたしは以下のようなマントラを唱えて自らを奮い立たせたーー「慣れだよ慣れ。慣れちまえばこっちのもんだ」

その結果がご覧の通りの有様である。今年の漢字は「狐」をおいてほかにない。

いまなんじぇーい!

BABYMETALを観たり聴いたりしていると、大はしゃぎする意識に一瞬の空白が生じることがある。そうして以下のように自問するのだ。

「俺はいったい何をやっているんだ?」

何しろ向こう側とこちら側とのギャップが尋常ではない。かたや想像の世界から抜け出してきたような可愛らしい女の子たち、かたや現実世界という糞溜めにどっぷり浸って生きる冴えないおっさん、このグロテスクなまでのコントラストが脳裏をかすめるとき、一瞬の空白と自問とが生じるのである。

例えばカーステレオから流れるBABYMETALに合いの手を入れた直後、部屋で映像作品を観ながらキツネサインを掲げる瞬間、当ブログを更新すべく文章を書く最中、それはぶらりとやってきて、わたしの肩を叩く。

「おい。何をやってんだお前は。アイドル嫌いのメタル好きがどうしてこうなった。すっかり骨抜きにされちまったな」

このような現象を「魔法の解ける前触れ」と見る者がいるかもしれない。「その一瞬が少しずつ引き延ばされていき、ついには夢から醒める瞬間が訪れるのだ」などと訳知り顏に分析する者がいるかもしれない。

しかしそれは間違いだ。

わたしはむしろこの自問こそがBABYMETALを心底楽しむための重要なファクターになると考える。

これをいつも胸ポケットに忍ばせておく。言い換えれば、BABYMETALに出会う前の、分別臭くて、マッチョ気取りで、いまひとつ馬鹿になりきれなかった自分を頭の片隅に置いておく。そんな過去の自分と比べて現在の自分がいかに自由か。いかに上機嫌な馬鹿か。いかに音楽的視野を広げたか。そうした変化のひとつひとつに自覚的であってこそ、BABYMETALを体験する喜びが何倍にも増すように思えるのだ。

例えば『ド・キ・ド・キ☆モーニング』という卓越した楽曲がある。

わたしはこれを体験するとき、アイドルが放つハッピーなヴァイブスを、ヘヴィメタルが生み出す破壊と創造のエネルギーを、音楽そのものが内包する魔法の力を痛感せずにはいられない。「俺はいったい何をやっているんだ?」の自問をしかと受け止めつつ、心の底から「いまなんじぇーい!」と叫ばずにはいられない。

そうやって過去を置き去りにするのだ。糞みたいなあれこれでガチガチに凝り固まっていた過去の自分をあざ笑い、あるいは懐かしく思い出しながら、さらなる高みを目指すのである。

ほら、もうあんなに。わずか8ヶ月前の自分が米粒のようだ。

『LIVE AT WEMBLEY』レビュー

当初は購入を見送るつもりだった。東京ドームの2枚組まで待とうと考えていた。何でもかんでも出たら買うなんて姿勢は主義に反するからだ。

ところが1週間ほど前である。はたと我に返ったわたしは、自分が何やら嫌に黒光りする薄っぺらな小箱をテレビへ接続しているのに気付いた。正面中央のロゴから察するところブルーレイが再生できるやつらしい。「何じゃこりゃ危なーい!」と内心叫んではみたが、もちろん手遅れだった。

そうして24日の午後8時半過ぎ、「まさか」と「やはり」との狭間で揺れ動くわたしのもとへ、例の薄ぺらい段ボール箱が届いてしまう。ありったけの勇気を呈して開梱すると、果たして中身はBABYMETAL『LIVE AT WEMBLEY』のBDなのだった。「ほーらーブルーレイ来たー」とわたしはつぶやいた。

以後かれこれ10回近く鑑賞している。そのたびに時間泥棒があらわれ、わたしの貴重な時間をまんまと盗んでいく。

2ndアルバムの楽曲がどれも半端ない。パフォーマンスの質が高すぎて笑い泣きするほどだ。『ヤバッ!』と『GJ!』は何度観ても飽きない可愛らしさを、『META! メタ太郎』はスタジオ音源に比すべくもない圧倒的なダイナミズムを提示する。会場がピースフルな一体感に包まれる『THE ONE』からの『Road of Resistance』がライブのハイライトなのは間違いないにしろ、わたしとしては『Amore -蒼星-』をベストトラックに推したい。

何しろSU-METALの歌声と神バンドの演奏とが極めて高い次元で融合している。双方が心と身体のすべてを余すところなく差し出し、ひとつの卓越したパフォーマンスを作り上げている。おそらくは楽曲そのものの求めるレベルが一際高いからこそ、彼らの音楽に対する献身性がより強く感じられるのではないか。

あんまり長くても仕方ないので、以下にその他いろいろを書き散らかす。

・もちろん1stアルバムの楽曲も半端ない。
・音の仕上がりが「ヒャッハー! これぞメタルのライブだぜ!」といった具合で最高だ。
・神バンドが上手すぎて涙が出る。
・女の子たちがかわいすぎて魂を抜かれる。
・やたらと脚に目が行くなと思ったら、どうやらスカートの丈が少々短い衣装らしい。
・YUIMETALの挨拶の最初のところが聞き取れない。
・個人的に言って『LIVE IN LONDON』を軽々と超えてきた。なんという傑作!

評価 ★★★★★